【あいぽんの半生】自分の半世紀をドラマ仕立てに書いてみたらめっちゃ長くなった話

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こんばんは!
今夜も夜更かししているあいぽんです。

突如思いついたのですが、まったく知らない方に対して、自分という人間(しかも、特に何者でもない)の歴史を書くとしたらどんなページになるんだろう?と思ったら書いてみたくなりました。(なったんかい)

そこで、思い立って自分の生い立ちから今までの40年間を自分の半世紀として、をドラマ仕立てに書いてみました。(書いてみたんかい)

自分の人格形成にかかわるエピソードなどを振り返っていると、自分で引くくらい長文の大作になってしまい(笑)、こんなん誰が読むん?って思いながら今導入文を書いています。

今の自分というものはこうして出来上がったんだなあということが再認識できて、いろいろ思い出しながら書いてみたらわりとおもしろかったです。

ちなみに、いつもの雑記と違ってわりと真面目に書きました(笑)!

そして、せっかくなのでポエム感満載に書いてみました。(せっかくだとポエム感出るんかい)

思春期部分のボリューム多めです。

知らない誰かの半生ですが、興味本位でめっちゃ時間のある方はぜひどうぞ!(注:めっちゃ長いうえに字ばっかりです。興味がない方はここでさいなら~)

もくじ

幼少期

1982年、岡山県内某所。
会社員の共働き両親の間に誕生した私は、「あい」と名付けられました。

当時、母親が出産後もフルタイムの正社員として働くというのはとても珍しかったようですが、私はそんな環境で生まれ育ちました。

まだ0歳児保育を事業としていなかった某保育園に、私はお試し0歳児として預けられ、その保育園では翌年から正式に0歳児保育を開始したそう。(その保育園が見つかるまでは、私は赤ちゃんのいる叔母の友人に預けられ、その方のおっぱいを飲んで日中過ごしていたそう。乳母か・・・)

2年後弟が生まれても母は働き続けました。

当時は育休制度などなく、女性が取得できた出産にかかわる休暇は産休のみ。

産後2か月からフルタイムで仕事・・・考えただけで母はすごい・・・!

でもそのおかげで、何不自由なく暮らせました。母には頭が上がりません。

母が大切に取っておいてくれている、わたしの保育園時代のスケッチブックにある絵や文字は、我ながら大変上手だなと思う出来栄えです。

小学生時代

井の中の蛙

両親は変わらず共働きで、幾度となく他人から「お母さんが家にいなくて寂しいね」と言われた記憶があります。

でも不思議と本人に寂しかったという記憶は一切なく、「寂しくなんかないのに、なぜ大人はお母さんが働いている=寂しいと決めつけるのだろう」と思っていました。

そして「両親は自分たちのために働いてくれている」ということを子供なりに理解してもいました。

でも確かにその時代、周囲の友達のお母さんはだいたい専業主婦で、小学校から帰宅すると家にはお母さんがいるのが普通のようでした。(低学年のうちには理解しました)

記憶の中で小学生の私は、いわゆる「利発な子供」でした。

勉強は得意で、運動はてんでダメ。

通知表はいつも「体育が1か2でそれ以外オール5」でした。

顔も可愛くないせいか、よく人から「賢そう」と言われていたし、中身も子供らしさがないというか、生意気というか。

先生が言っていることに「本当はこうだから、こう言えばいいのに」とか思っちゃうような子供でした。(かわいくない・・・)

小学校のうちは、授業の内容が難しいとか分からないと感じたことがなく、本当にかわいくないけど「勉強は楽勝」だと思っていました。

絵や作文が得意だったので、絵画コンクールや読書感想文でたくさん賞状をもらいました。

大人になった今、あれは一緒にネタを考えてくれた両親のおかげだったんだなと冷静に思います。

でも視野が狭い当時は、「勉強も絵や字をきれいに書いて(描いて)褒められることも、ちょろい」と思っていました。

「井の中の蛙大海を知らず」とは、まさに当時の私のこと。

顔面コンプレックスの始まりと、中学受験

高学年くらいになると、自分が一般的に「可愛い顔」ではないことを理解し始めました。

悪意のない大人がよく私に「あいちゃんは色が黒いね、(色白の)弟と逆だったらよかったね」「あいちゃんは賢そうな顔」と言うので、私は少しずつ、「女の子は色が白い方が良いとされている」「可愛いと言えない時、大人は賢そうという言葉で濁す」ことを理解していきました。

そして順調に自分の見た目に少しずつコンプレックスを抱き始めます。(これは今もあって、娘や息子にはそうならないでほしい、自分は可愛い!と思って生きてほしいと思っています)

当時、まだ週休2日制ではなかったので両親は土曜も仕事で、私は小学校からお昼には帰宅していました。(午後は授業がなかった)

昼からずっと時間を持て余す私のために、両親は「土曜の午後、週1度」の塾に通わせてくれました。

いわゆる、入塾テストがあって成績順にクラス分けされる(当時の田舎ではまだ少なかった)小学生向けの進学塾で、塾のクラスメイトは全員中学受験をするために通っていました。

この時はじめて、地元の公立中学に進学しない子がいることを知りました。

そして、学校の授業よりももっと難しくてもっと楽しい授業があることを知りました。

週に1度のその塾が私はとても楽しく刺激的で、のめり込んでいきました。毎週土曜が楽しみでたまらなかったのを覚えています。

また、小学校で受けるテストでは、100点を取ったところでいちいち誰が100点だったなどと発表されませんでしたが、塾のテストでは、全国の塾生の成績がランキングされて配られ、私はその順位を見るのが大好きでした。

分かりやすく自分の居場所を確認できる「ランキング」を見ては「自分はこんなに上位にいる」と安堵し、それが生活のモチベーションでした。

根っこでは自分というものに自信がなくて、ランキングは、自分という存在価値を示してくれるもののように思えました。

「成績ランキングの上位にいること」が、この頃から大人になってしばらくまで拠り所だったように思います。

そして小6の冬。
両親的には「記念受験」だった地元の有名私立中学に合格しました。

「例え受かっても公立中学に行く」という約束(建前)で受験しましたが、私は「受かったらきっと行かせてくれるはず」と信じて勉強していたので、計画通り「◎◎中学に行きたい!」と言い出し、両親を困らせます。

今思えば実家は、子供を私立中学に通わせるような経済状況ではなかったと思います。

結果的に「①毎日お弁当を自分で作ること(私立中学なので給食がない)」「②お友達が持っているから、お友達が●●だからという理由でわたしも欲しい、やりたいが叶わないこともあるが、我慢すること」の2つを条件に、貯めていたお年玉を入学金に充てて入権利学を勝ち取りました。

2つ目の条件「お友達が持っているから、お友達が●●だからという理由でわたしも欲しい、やりたいが叶わないこともあるが、我慢すること」については、当時12歳の子供にはいまいちピンときませんでしたが、入学してからいろいろ理解しました。

あいぽん小学生時代の「本当はあれやりたかったな」
市民音楽祭や学芸会の合奏等で学年で1人だけ選ばれるピアノ伴奏役。ピアノは唯一の習い事でしたが、ピアノ伴奏の座はなかなか遠かった。あれかっこいいよな・・・

中学生時代

初めて勉強が分からないと感じるようになる。そして周りの子は私の家よりお金持ちだった

いわゆる「県内の有名私立中学」に晴れて入学。

今までずっと「まわりの友達より勉強が得意」な状態だったのが一転して、「周りは自分より勉強ができる人ばかり」の状態に。

戸惑いながら順調に成績が転落していきます。

特に数学という科目との出会いが、わたしの今後の人生を変えたといっても過言ではありません。(大げさか・・?)

数学脳がなくても問題が解ける小学校までの「算数」では特に困らなかったのですが、数学では中1の範囲ですでにつまづきます(早)。

そこから6年間(大学受験までずっと)つまづいたまま、ついには起き上がれず、数学はずっと苦手でした。(ついでに理系科目全般が苦手でした)。
※物理の問題で、「風の抵抗は受けないものとする」みたいな注意書きに対して「最初から屋内でやれや」と悪態をついていたタイプです。

また、今は知りませんが当時の岡山県でわざわざ私立中学に進学するのは、ごく一部の裕福な家庭と教育熱心な家庭くらいだった(と思う)ので、同級生の中にわたしのような子供(両親が共働き会社員)はほとんどいませんでした。

友達の親はだいたい医者か経営者でした。

だんだんと、世の中にはいろんな経済状況の家庭があることを学んでいきました。

部活は「部員が多くて楽しそう」という理由だけでソフトテニス部に入りました。(顧問が情熱的だったため進学校のわりにガチに取り組む部でした)

もともと運動音痴なので部内のトップには到底なれませんでしたが、持ち前のド根性で超真面目に取り組んだ結果、「ギリギリ団体戦チームに入れるポジション」を3年間キープします。

(朝練の開始時間より1時間早く登校して、1人でサーブ練習とかしてた)

ソフトボール投げが3mとか小学校高学年まで逆上がりができない、とかの実力者なのに、我ながらアレはよく頑張ったなと今でも思っています・・・(笑)

少しずつ自分に自信がなくなっていった

勉強でトップにはなれない。
みんなが賢すぎるし、学校の授業は小学校の時みたいに簡単ではない。

ついていくのに必死。
中高一貫校で高校受験がなかったので、ちょっと呑気に過ごしていたら成績が学年順位のビリッケツに近いくらいにまで転落。

中3の夏ついに父から、「勉強を頑張るということで◎◎中学に入ったはず。真剣にやらないなら、高校はそのまま進学せず県立高校を受験しなさい。次の定期考査で判断する」と言われてしまい、これではイカンと必死に勉強しました。

結果、次の期末考査ではなんとか中の上くらいの成績まで持ち直し、県立高校への編入は免れたものの、この時も自己肯定感がやや下がったなと思います。

あんなにあんなに頑張ったのに、真ん中よりちょっと上くらいの成績だった。
みんなはそんなに(私ほど)勉強してないと思う。受験がないから。

だけど私は、毎日帰ってきて寝るまでずっと勉強したのにこの程度の成績にしかならない。

私は勉強が得意なわけじゃなかったんだ。
私は色黒で(しかもテニス部だったから当時本当に真っ黒だったw)、ブスで、スコートから出ている足も太い。(だからなんでテニス部入ったんだよ)

みんなは勉強ができて、可愛くて、細くて、家がお金持ち。
(マジで、地元の◎◎病院とか■■医院とか△△歯科とか、全部同級生の家だった)

私は、私の価値は・・・

勉強もできないし見た目もイマイチなら、面白くないと。

そんな感じで、だんだん「面白くないと価値がないかも」みたいな考えになっていき、どんどんおしゃべりになっていきました。

中学時代の黒歴史
「中3を送る会」で自分たち3年生の出し物として、中二病感炸裂のミュージカル調の群像劇(急に社会や親に対しての不満を叫びながら踊り狂ったのち、最終的に感謝の意を述べてしっとり歌って終わる)の脚本を手掛け総合プロデュースする。(自らも「もっとわたしを見てよ!!」等恥ずかしいセリフで出演)
あのビデオ今も誰かの家に残ってるのかな・・・

高校時代

高1の秋、一人トイレで過ごした学園祭

中学からそのままエスカレーター式に進学し高校生活開始。

高1の秋、夏休みが明けて登校したら、急に所属していた女子グループみんなから無視されるようになりました。

人生で初めて「学校に行くのが嫌だ」と思う体験。

暴力とか物を隠されるとかはなかったので、いわゆる「いじめ」じゃなかったかもしれませんが、そのグループ全員(他クラスまで及ぶカーストグループだった)が明らかに私を避けていました。

教室内の机も(仲良しグループで近くの席だったので)、わざと私の周りだけ1m以上離されてて・・・

なんか思春期だし、最初の頃は親にも他の(所属グループ以外の)友達にも、ハブられてるって言えなくて。(席を見れば一目瞭然なんだけど・・・)

周りから「あいちゃん、あのグループにいたのにハブられてる」って思われるのも嫌で嫌でたまりませんでした。

そんな時に学園祭なんかあったりして、今思えば当日休んじゃえばいいのに、真面目に登校しました。
(クラスの出し物が体育館でやる劇で、私はナレーション役だったので穴をあけてはいけないと思って無理やり登校)

学園祭を一人で見て回るなんて、そんな恐ろしいこと平成の女子高生にできるわけもなく(笑)、自分のクラスの劇が始まる時間までずっと、校舎内1階の、あまり利用する人がいなさそうな場所のトイレの個室で過ごしていました。

そして劇が終わり、役目を終えて、またトイレに戻ってきて、学園祭が終わる夕方までずっと誰とも話さずに過ごしました。

劇の役を決めたり練習していた頃は、グループのみんなと一緒にワイワイしてたのに・・・本番がこんな日になるなんて。

なんかそれ以来、学園祭というイベントそのものにネガティブなイメージがつきまとい、大学生になっても私は学祭というものに一度も出席したことがありません。

シカトからの復活

で、ある日とうとう今日は学校行けない、って思った日があったんですが、その時に母が会社を休んでくれました。

「1日だけ一緒にサボろう」と言ってくれたことが嬉しかった・・・!

2人でレンタルビデオ屋でビデオを借りてダラダラ見たりして過ごしたのを覚えています。

おかげで学校を休んだのはその日だけで終わり、翌日からは「あいつら全員バカ」という思いを胸に、毎日登校しました。

でも、登校しても、基本的には1人で過ごしていました。

当時わたしをハブった主犯格の子とは連絡など取ってないですが今でも恨んでいて、たぶんこれに時効はないなって思っています(笑)

自分は可愛くないから、太いから、あのグループにはふさわしくない、って思われたのか?
(結局、理由は今でも分からないままだけど)

勉強もパッとしないし、みんなの家みたいにお金持ちじゃないから?

だから両親は公立中学に行った方がいいって言ったのかな?

私みたいな取り柄のない人、誰も仲良くしようと思わないかも・・・

もう自己肯定感が奈落の底まで転落していた私は、「これから卒業するまでずっとボッチかもしれない」と思っていました。

あいつらは全員バカだって思うことで自分を保とうとしていましたが、戻れるものなら戻りたいという気持ちも、どこかにありました。

もちろん、他にも話せる友人はいましたが、女子中高生の、なんか群れになろうとする「グループ文化」ってあるじゃないですか。

「私はこの部署に所属してます」的なやつ。

廊下で話したりはするけど、「一緒に通学する」「お昼を一緒に食べる」「教室の移動では行動を共にする」みたいなのは、所属グループで動きますみたいな。

「今日からこっちに入れてください」みたいなの、どうすればいいか分からなかったし、私がシカトを受けたグループはいわゆる「学年カースト上位」的グループだったので、「あそこをクビになったあいちゃん」みたいな自分が惨めでした。

中学校から続いていた(と思っていた)友人関係は、いとも簡単になくなりました。

クラス内でポツンと過ごしていた高1の二学期、他クラスの子から言われたことを今でもよく覚えています。

「あいちゃんは、なんであんな人たちと仲良かったの?あんなのと、また仲良くしたいとか思うの?」

それでハッと目が覚めて、やっと、あんな人たちは私の人生に要らないなと思えるようになりました。

そこから先は「自分を大切にしてくれる人と仲良くしよう」をモットーに人間関係を築いてきたように思います。

幸い、翌年には「あいつら」は全員別のクラスになりました。(担任の先生、分かっててそうしてくれたと思ってます)

その後の人生では、思春期から大人になっていろいろ分かってきたからという部分もありますが、馬が合わない人とは適切に距離を取り、私を大切に扱ってくれる人を自分も大切に扱いながら生きて来れました。

高1の秋に所属グループをクビになった私ですが、幸いその後、私を大切にしてくれる友人に恵まれ、高1後半以降は、理系科目全般が一切理解できないこと以外は、楽しく高校生活を送りました。

相変わらず周りの友人はみんな可愛くて賢くておうちが病院だったりお金持ちだったりしましたが、新しい人間関係の中では、みんな私を肯定してくれました。

女子は一度や二度、こういうのがあるのかもしれませんが、我が子にはあんな思いさせたくないなと心から思うし、人にもしてほしくないです。

まだ携帯電話を持っていなかった私の時代でさえあんなにつらかったのに、中高生はほぼ全員スマホを持つ時代。

本当に狭いコミュニティの中の友人関係が人生のすべてみたいに思える、思春期というややこしい時期・・・

本当にどうなることやら、今から本当に心配。

もし我が子が学校に行きたくないって言い出したら、あの時母がそうしてくれたように、とりあえずその日は会社休んでしこたま話を聞こうじゃないかって今から思ってます。

ハブられ事件からの人生の教訓
「私を苦しめる、大切にしてくれない人は私の人生には不要」

大学受験~人生のコンプレックス

友人達の家庭は皆裕福だったり、私より頭脳明晰だったりで、自分以外全員県外(主に東京や関西圏)の有名私大や国立大に進学することになりました。

医学部や歯学部に進学した友人もいました。

私は裕福でもないのに無理を言って私立高校に行かせていただいていた身分なので、両親からは「自宅から通える大学なら進学してよし」という条件がついていました。

行きたいと思える偏差値の大学は岡山大学のみでしたが、国立大学の受験にはセンター試験で数学を受験しないといけないという大きな関門がありました。

ここで、伸びしろしかない(さっぱり理解できていない)数学ⅡBが必要な学部を選べたなら、そしてせめて平均点くらい取れたならば手が届きそうな学部もたくさんあったのですが・・・

もう数ⅡBって聞いただけでじんましんが出るほど数学アレルギーだった私は(じんましん出んけど)、「数ⅠAだけで受験できる」という理由のみで受験学部を選びました。(入学後なにが学びたいかはそっちのけ)

結果、法学部しか選択肢がありません。

偏差値のボーダーラインは67!
ヒュ~~~~~シビれる!!ボーダーが67はなかなかシビれる!!(笑)

わたしの大学受験は美しく散りました。

結果的に、県内で岡大の次に偏差値の高い私立大学に進学させてもらいましたが、このことはわりと、つい最近まで自分の中で大きなコンプレックスでした。

卒業大学が理由で就職に困ったり、わたしの人生に困難をもたらしたことは実際ありません。

でもどこかで、「出身大学が微妙だから、目指してみたいけどやめとこう」と思った職業は、実際ありました。
岡大だったら目指したのかどうかも分からないし、地方の国立大学を中途半端と思う人もいるでしょうが、当時の私には「第一志望に行けなかった自分なんて」という思いが根強く残ってたんだろうな。

出身大学を聞かれるたびになんともいえない苦い思いがして、今でもどこかに「文系科目だけで受験できる県外の私大も許されたなら、どこまで目指せただろう」という思いがあります。(20年ひきずってる。未練がましすぎやろ)

いや、それじゃ両親に対する不満になっちゃうか。

もしも数学が人並みにできたなら人生変わったのかなぁ、なんて当時はよく思ってました。

でも、その「もしも」ができなかったのが、私の人生。私の人生はその程度。

小学生の頃はなんだか自分は無敵な気がしてたけど、井戸の中を飛び出したら自分はただの蛙だった!笑

「偏差値至上主義はどうたらこうたら」みたいなご意見あると思うんですけど、普通科の高校生にとって入学する大学の偏差値は、自分が頑張ってきたこと(勉強)の集大成じゃないですか。

だから本音は、もう少し偏差値の高い大学に行きたかったな〜!!です。

高校までを振り返ったところで、うちの両親すごいよなぁって思うところは、わたしほとんど「勉強しなさい」って言われたことないんです。

本当に勉強なんてできてもできなくてもどっちでもいいと思われていたのか、言われなくてもわたしが自主的に勉強してたのかはよく分からないのですが。

「大学は行っても行かなくてもどっちでもいいわ」と、いつも言われていた気がします。

私はまだ小学生の娘にさえ勉強しなさい的なニュアンスで言ってしまうことが多々あるにもかかわらず、大学受験まで娘のヤル気に委ねるってけっこうすごいです。

大学生時代

遊んでいただけの4年間

大学受験に失敗したという思いに相当包まれたまま、4年間過ごしたように思います。

ただ、学生生活自体はけっこう楽しく、友人にも恵まれて、ほとんど勉強もせず4年間しこたま遊び倒しました。

いろんなところにピアスを開けまくったり、夜な夜な出歩いたり、恋をしたりバイトしたり。

我が子がこんな大学生になったら嫌だなっていう大学生でした。

地元のライブハウスに入り浸り、ロックをたくさん聴いて過ごしていましたが、たぶん本当に音楽が好きだったというよりその場所でお酒を飲んで盛り上がってるのが好きだったんだと思います。

本当のロックファンに怒られそう・・・!

遊びすぎてけっこう単位を落としていて、4年生になっても単位が足りなくて大学に行ってました。

当時の女子大生はみんなCamcam的ファッション(エビちゃんとか?)をしていましたが、わたしは金髪、まゆげ薄い、マスカラ命、ピアスだらけ、つなぎを着てる・・・みたいな、夫からは「この時出会っていたら絶対好きにならないタイプ」って言われます。

就活で上京を決意

就活がスタートし、なんとなく最初は自宅から通勤できそうな企業ばかり受け、県内のそこそこの有名企業に内定をいただき、これからも実家で暮らすものと思い込んでいたのですが・・・、

これまた、中高の同級生は、名だたる大企業に就職を決めていきました。

今でこそ人と比べてどうするのかって思うのですが、当時の私は、「こんなんでいいのか、就活」という思いに包まれていきます笑。

なんとなく自宅から通える会社を選択し、なんとなく「自分は社会人になっても実家に住んでいるイメージ」のまま終わった就活。

ある時、「大学進学の時、岡山から出られなかった」という思いが急に再燃します。

「出るなら今じゃないか」「自分が稼いだお金で生きていくなら、どこに出ようと文句は言われないのではないか」という思いがムクムクしてきました。

そうだ実家を出よう!出るなら中途半端に関西圏じゃなく、東京に行こう

そう決意した私は、4年生の6月くらいから就活を再開ました。(当時は4年生の春には内定が出ているのが普通でした)

うすうす気付いていましたが、こんな時期になっても新卒募集を続けている企業って、激務だったり離職率が高い企業が多かったです。

私がこの時、主に選考を受けていたのも人材派遣業の営業職とか、いわゆる激務と言われる業種職種が多かったです。

結局その中で3社から内定をいただき、その中から一番、わたしに入社してほしいと言ってくれた(気がした)業界最大手のとある企業を選び、入社しました。

上京することは両親からは歓迎されておらず、でも自分のお金で生活していくんだから娘の選択にとやかく言えない・・・とにかく22年間家から出たことのない娘が、大都会東京で一人暮らし、大丈夫かいな・・・って感じだったと思います。(たぶん)

社会人になって1社目を退職するまで

漆黒のブラック企業で血を吐きながら働く

入社した企業は、令和の今はもっと環境が良くなっていることと思いますが、私が入社した当時はいわゆるブラック企業でした。

ブラック・・・漆黒だったと思います。

毎日4~5時間の残業は当たり前、休日出勤当たり前(でも時間外手当は過少申告するのが当たり前)、数字数字数字・・・とにかく営業成績が第一!

女だろうが若かろうが営業成績が良ければ昇進するという社風。

田舎から出てきた22歳女子には正直きつかったのですが、両親の反対を押し切って上京した手前、「東京で頑張ってみたけど、無理だった」はあまりにもダサい・・・!

結果を出すまではと歯を食いしばって頑張りました。

また、大学受験で失敗した自分は、ここで頑張るしかないという思いもどこかにありました。

みんなが羨むような企業に就職できなかったんだから、せめてここではランキング上位にいたい。

歪みまくったヤル気と根性で、気付けば営業成績は数百人いる営業社員の中でトップクラスに。

入社から数年間で、何度か血を吐き、過呼吸になったり、業務中に倒れて救急車で運ばれたりしました。

そして、多くの友人を失い、恋人も失いました。

入社6年目で池袋の支店を任されますが、この時期が社会人人生の中では一番きつかったです。

残業は毎月160時間以上、本当に家には寝に帰るだけ、支店で女性は自分だけ、部下はみんな年上の男性、毎日の数字へのプレッシャー・・・。

営業自体は嫌いではなかったのですが、とにかく激務だったのと、このポジション(管理職)は自分には向いていないなぁとつくづく実感。

上の人たちも私の適性を見抜いたのでしょう、この役割から降ろしていただきました(降ろされた、が正しいか)。

その後は退職まで立川、銀座、新宿で勤務し、基本的に「営業成績でボスをお支えする立場」を自分の居場所とし、引き続き身を粉にして働きました。

この時の体験から、今でも「昇進したい」「多くの部下を持ちたい」という気持ちはまったくなくて、「ボスに頼りにされる存在」くらいが自分にとって居心地がいいという思いで働き続けています・・・

自分の人生に不要な上司とは別れようと決意

支店長の役を降りた後も、営業売上額は社内で月間トップ、年間トップと上り詰め、30歳を迎える頃には年収が8桁になっていました。

しかしやがて・・・やりがいはあるし、評価もしてもらったし、お金もたくさん稼いだのですが、それと引き換えにいろいろなものを失ったことに(やっと)気付き始めます。

健康、プライベート、精神的な安定感・・・。

上司を見ながら、自分がその会社で(再び)管理職になる絵は到底描けず、「いつかこの会社であんな風になりたい」と思うポジションの人は社内にいませんでした。

そして、今は自分のことだけを考えて働けばいいけれど、将来結婚したら?子供が生まれたら・・・?

子育てしながらこの会社で働くという未来は見えません。

母がずっと働いていたのを見ていたので、自分には結婚後専業主婦になるというイメージはありませんでした。

20代の頃はそこまで結婚願望もなく、生粋のバリキャリとして仕事していたのですが、いざ30歳を迎えた途端に女性の体のタイムリミット等をいろいろ考えるようになってしまい、まだ身に起きてもいない結婚・出産について、いろいろ妄想するようになりました。

そして30歳を過ぎた時、当時の上司(この会社での最後の上司となった人)と本当に馬が合わず、まったく支えたいとも思えず、毎日会社に行くのが精神的につらくなってきていました。

それまでは上司となる人に恵まれてきたのですが、この時の上司(支店長)のことは本当に無理で無理で、激務でも仕事自体はずっと好きだったのに、退職を考えるほどでした。

嫌すぎて嫌すぎて、それはもう本当に嫌すぎて。

パワハラ、と呼ぶのでしょうね、あれは。

なぜ他のメンバーは文句も言わず従っているのだろうと思っていました・・・。

それまでの「仕事場嫌だなぁ」は、体がしんどいな、睡眠足りてないな、という感じだったけど、この時初めて「精神的にまいった」という状態に。

ある日、プツッと糸が切れたように、

高校生だったあの日、理由も言わずに私から離れていった友人たちに対して思った感情と同じ感情が込み上げてきました。

私の人生に、この上司も、この会社ももう要らないな・・・。

急にフッと、「よし転職しよ。自分を取り戻せる会社に」と決意。

「大都会東京は、もう十分味わった」と思った私は、いろいろなものを取り戻すために、地元岡山に帰ることにしました。

母が「いつでも帰っておいで、もう充分頑張ったんじゃない」と言ってくれたのを思い出します。

10年以上お世話になった上場企業をアッサリと退職し、岡山県の片田舎の中小企業(もちろん非上場)に転職し、今に至ります。

退職の意思をその上司に伝えた時、「次はどんなところに転職するつもりなのか」と聞かれたので「業種は問わないので、土日が休みで自宅から近くて定時で帰れてストレスがなさそうな職場がいいです」と伝えると、「30オーバーでそんな都合の良い職場、あるわけない」と吐き捨てられたのを覚えています。

岡山に戻ってきて自分を取り戻す

転職に大成功する(笑)

意外と転職活動自体はスムーズに終わりました。(前社での実績が相当効いていたのか、6社受けて6社ともから内定をいただきました)

大学受験は失敗したけど、この時ばかりは大成功しました。(たぶん私は、面接が得意です・・・)

もちろん年収も中小企業なりの、田舎なりの額で、前社のような輝かしいポジションでもなんでもないのですが、職場の人達はみんな良い方々で、ストレスフリーに仕事ができているのが最高です。

どんな小さな仕事でも、仕事をしたら褒めてもらえて評価してもらえる。

そんな当たり前のことがどれだけ最高なのかということを、入社から何年も経った今でも日々思っています。

あの時の上司には時々、「土日が休みで自宅から近くて定時で帰れてストレスがない職場で私は今、毎日幸せに仕事しています」と心の中で手紙を書いています。

今が幸せ

父ちゃんと出会い、子供が生まれ、4人家族になり、毎日忙しく、毎日愛しく、40歳を迎えました。(間もなく41歳を迎えます)

・・・・私の人生、今ここですw

転職しなければ良かった、東京でもっと頑張れば良かったと思うことは一度もありません。

最初から地元で就職すればよかったのかもしれませんが、「一度外に出たからこそ地元の良さが分かる」っていうのもあると思うし、東京で就職したこともまた、後悔はしていません。

全部全部、あんなことやこんなことがあったから、今の私があるんだよなあと思うことにしています。

身の丈に合わない中学・高校に行ったこと。(でも当時の友人がこれまた、一緒の宝です)

大学受験に失敗したこと。

超ブラック企業で10年以上頑張ったこと。

そして今、地元の岡山県で、平凡に楽しく幸せに暮らしていること。

幼い頃から、「何者かになりたい」と思っていた私が40歳の今立っている場所は、何者でもない、田舎のお母さんです。

生まれてからずっと、平凡な自分に対してなんとなく「本当はこうなりたかったのに、こうなってしまった」という思いで生きてきたよう思いますが、この年になって初めて、「こうなりたくて、今こうなっている」と思えているような気がします。

平凡で幸せな毎日のことを愛しく思っているし、そんな自分が嫌いではなくて。

「今日より明日が、ちょっとだけ良かったらいいか」って感じで生きています。

人生折り返し地点だけど

平均寿命くらいは生きると仮定して、今すでに人生の半分は終わった状態だけど、「残りの人生は子どもの成長だけを見守ってただただ生きる」とは思ってなくて。

最近いろんな場所で、いろんな人から「やらずに後悔して死にたくないよね」っていうエピソードを聞く機会があるんです。

つい最近では、会社の事業計画発表会で代表が言っていた言葉が心に残っています。

アメリカで、80歳以上の高齢者に「人生の後悔」についてアンケートを取ったら、7割の人が「もっとチャレンジしたらよかった」という結果だったというもの。

そう、子供の頃は視野が狭くて、人生の成功=偏差値の高い大学に行く、年収の高い仕事に就く、そんなイメージしか持てなかったけど

「やってみたかったこと」って、実は40歳になってもいろいろある。

もう半分終わった人生だけど、まだ半分残ってるとも言える!

そしてあの頃と違って、今やってみたいことに多少お金がかかるとしても、可能な範囲で自分で払うことができる。

「何者かになろう」って話じゃなくても、何かやってみたいことにチャレンジすることって、めちゃくちゃ生活に潤いが出るというか、活力になる気がしています。

どこに需要があるか分からないけど、40過ぎた普通の母さんのチャレンジ日記について、今後もここに残せていけたらなぁと思っています♩

人生で両親から影響を受けたなと思うこと

母から

・母は字、絵がとてもキレイだった

・母はわたしを出産してから育て終えるまでずっとフルタイムの会社員だった(働きながらでもやりたいことはやれる!の超お手本だったと思ってます)

・母は料理が上手だった

父から

・父はキャンプや登山によく連れて行ってくれた → そのまま私の今の趣味になってます

・父は片付け(整理整頓)にやたらうるさかった 

そして両親は、私をとても愛してくれた。

産んでくれてありがとう、育ててくれてありがとうの気持ちでいつもいっぱいです。

ここまで超長いのに読んでくださってありがとう!

・・・ここまで読んだあなた。

・・・・・なかなか眠れずにいますね?(笑)

超絶どこにでもいるお母さんの40年について、ここまで読んでくださってありがとうございます。

そしてもし今、めちゃくちゃ仕事が辛いとか、人間関係がしんどいとか思っている人がいたら

「そんな仕事も人間関係も、あなたの人生に要るの?」と、ブログの中からあなたにエールを送りたいです。

あなたの幸せの邪魔をするような仕事、辞めちゃったらいいし、あなたが幸せでいるために必要な選択をしていったらいいと思います。

仕事はそこだけじゃない!
友達もその人しかいないわけじゃない!

そんな感じでうまく締められませんが、終わります。

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